生涯を知る11のエピソード 2

2. 戦争時代と2度のUターン(1940年代〜50年代) 

諏訪中学(現諏訪清陵高校)卒業後、大学時代(早稲田大学建築学科)を大戦下で過ごす。学徒動員により中学同級生の半数近くが戦争により亡くなった戦後、下諏訪に戻り地元高校の数学教師に。(1度目のUターン)その後フルブライト交換教授として米国に2年間滞在。帰国後、東京での文化人生活もあったはずだが、なぜか再び下諏訪に戻って(2度目のUターン)30年以上高校教師をしつつ、アートを発信し続ける。

代替テキストです

諏訪実業高校教員同僚と

諏訪中学(現諏訪清陵高校)を卒業後、1941年早稲田大学建築学科に入り、第二次世界大戦下を大学生として過ごしました。「学徒動員」の世代で理系であったため出征を免れましたが、中学の同級生の半数近くは戦争のために亡くなったと述べています。「みんな戦争に行って、自分の友人たちが死んで自分だけ生き残っている」(「機關13」(海鳥社)1982 P.12) この体験は、彼の作品に大きな影響を落としました。

そんな中でも20歳頃から、毎年初春に京都・奈良を訪ね、古美術・建築の探査をしていたということ。美しい茶室のスケッチが残されています。

終戦後1946年に早稲田大学卒業。謝恩会で「私は鉄とコンクリートの固さを信じない。魂の建築、無形の建築、見えない建築をしたい」と挨拶し先生と友人を驚かせたというエピソードは、後の作品を暗示しているようです。

東京の建築事務所に就職後、1948年に帰省。諏訪実業高校定時制下諏訪分校(諏訪大社秋宮山王台下、今の下諏訪中学のプールの場所にあった)で数学を教えながら、地元で詩人、画家として芸術活動を開始。

1955年にはフルブライト交換教授としてウィスコンシン大学に招聘。その後コロンビア大学院に移り、現代美術、宗教哲学を研究し57年に帰国。フルブライトで渡米といえば当時超エリートコースで、東京の大学で簡単に職を得られたはず。普通に考えれば最先端アーティストとして東京に住みそうなものですが、そのまま下諏訪に戻りそこで30年以上数学教師をしつつ、生涯にわたり世界に一流のアートを発信し続けました。