長野県下諏訪町から世界に発信し続けたアーティスト
松澤宥は1922年2月2日午前2時(大正11年)、長野県下諏訪町の生まれ。諏訪中学(現諏訪清陵高校)卒業後、早稲田大学時代(建築学科)を第二次世界大戦下で過ごし、学徒動員などにより中学時代の同級生の半数近くを戦争で亡くした経験に大きな影響を受けました。
戦後、下諏訪に戻り地元高校の数学教師をしながらアート活動を開始。その後1955年にフルブライト交換教授として米国に2年間滞在。帰国後、また下諏訪に戻って30年以上高校教師をしつつ、生涯アートを発信し続けました。
詩人として活動を始め、絵画やオブジェの制作を経て、1964年からはいわゆる「美術」制作を一切止め、文字だけを用いて「観念美術(観念芸術/概念芸術などとも)」を始めます。この頃から生涯を貫く「消滅」(「物質消滅」「人類消滅」「万物消滅」など)というテーマが明確に。ほぼ同時期に米国で「コンセプチュアルアート」運動が起こりますが、松澤は独自に「観念美術」を創始しており(時期も早かったとも言われる)世界的にもオリジナリティの高さが注目されています。
下諏訪の自宅は「虚空間状況探知センター」アトリエは「プサイの部屋」と名付けられ、瀧口修造や草間彌生、ギルバート&ジョージなど国内はもとより世界中から様々なアーティストや評論家たちが訪れ、多様な知の交流の場に。
代表作と言われる「消滅の幟(のぼり)」(1966)をはじめ衝撃的な作品を次々と発表。60年代後半〜70年代には、「ニルヴァーナ展」
(京都市立美術館 1970)「世界蜂起」(美術手帖誌上などでの展開 1971-73) など前衛的な国際的展覧会・プロジェクトをオルガナイズ。
世界的アートイベントヴェネツィア・ビエンナーレ、サンパウロビエンナーレ、ドクメンタの全てに出展するなどその活躍はグローバルに広がりました。1980年代に「量子芸術論」を発表、21世紀に入り社会問題を取り上げた「80年問題」へ深化し、2006年に84歳で生涯を閉じるまで、下諏訪を拠点に世界に向けたメッセージを発し続けました。
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