生涯を知る11のエピソード 3

3. 自宅をアートに?「虚空間状況探知センター」と「プサイの部屋」(1950年ごろ?~)

下諏訪の自宅を「虚空間状況探知センター」、そこにある自室兼アトリエを「プサイ(ψ)の部屋」と呼ぶ。「プサイの部屋」の命名者は美術評論家瀧口修造。プサイの部屋には夥しい数のオブジェやグラフィックがディスプレイされ、唯一無二の空間、まるでひとつの作品のように。噂は広まり、多くのアーティストや評論家が世界中から下諏訪訪問。

プサイの部屋 2002年 撮影:長沼宏昌

いつの頃からか下諏訪の自宅を「虚空間状況探知センター」、そこにある自室兼アトリエを「プサイ(ψ)の部屋」と呼ぶように。

「プサイ(ψ)」はギリシア文字の最後の一つ前のアルファベット。松澤の作品には生涯にわたり「プサイ」が登場。「最後のひとつ前」という意味とも、量子力学で使われる波動関数の記号、超心理学で超能力を表す記号とも。

「プサイの部屋」は製糸業を営んでいた自宅(帰郷した頃にはすでに廃業)屋根裏の蚕室をアトリエにしたもの。夥しい数のオブジェやグラフィック(自作のもの、他から持ってきたもの、自然物などを含む)がディスプレイされ、時にそれらは並び替えられたり、さながら部屋自体がひとつの変化する作品のようでした。

その命名者は高名な美術批評家・詩人・画家の瀧口修造。生涯にわたり松澤とは単なる評論家とアーティストを超えた関係だったといわれ、松澤は「瀧口先生」と敬愛し、瀧口は松澤の重要なプロジェクトのたびに自身の作品やメッセージを送っています。松澤家を何度も訪問し命名者でありながら、プサイの部屋の入り口までは行っても決して中には入らなかったとの伝説めいた逸話も残ります。

「部屋」の噂はアーティスト仲間や批評家たちの間に広まり、さまざまな人が来訪。例えば、同郷のアーティスト草間彌生(松本出身)も、尊敬する先輩の「プサイの部屋」をよく訪れていたようです。松澤に瀧口修造を紹介され、それがニューヨークに渡るきっかけの一つになったとも言われます。海外から著名なアーティスト(一例を「エピソード7」にて詳述)も来訪。そこは「虚のファクトリー」だったというのは、言い過ぎでしょうか。

「プサイの部屋」は松澤没後も大切に保存されていましたが、耐震上の問題などで中に置かれていたものは2018年一旦別の場所に。中の様子は全てデジタルデータ化され、オブジェなども保存されており、2022年の大回顧展で何らかの形で復活公開されるとの噂。期待して待ちましょう!